My Profile
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2012.2.19 (上記日付1984.12.19=データー整理上の過去の日付)
84年 シーズン 9月下旬の伊豆CSC 全日本実業団レースで終えた自分は、
当時のトレーニング日誌によると、1月に何度か大阪を往復している。
それは翌年85年のレース活動を見据えての「 就活 」であった。
前回も書いた様にシマノから内定をもらい、
後は、河内長野にあった「 五輪荘 」へ1月末までに引っ越しをするだけの予定だったが、、
12月になって急にアマンダの千葉さんから電話が、かかってきた。
千葉さん:「マーちゃん、きょーちゃん(三浦)が、スギノ行くらしいけど、、、
スギノの社長(杉野 安 氏)もし良かったら二人とも来ないかー?」
って言われたらしいょー!」
市川 : 「 えー、、、今からですか、、 シマノに返事してしまったし、、う〜ん、、」
その後、色々ないきさつもあったが、最終的になぜに自分が、
スギノチームに行ったーー!のかーは、!?
その時期にシマノチームには、ロードをバリバリやる選手がいなかった! と言うこと
=レースの少ない日本では、日頃のトレーニング相手が、本当に重要だった!!
と言うことに尽きる。
スギノ
その頃の実業団チームの定石であった
「 仕事=午前中いっぱい/午後=トレーニング 」 提示された。
シマノ
自分とベテランの国末さんのみ >昼からトレーニング時間
他のメンバー >まだ成績がないので、午後3時からと聞かされていた。
そんな馬○なぁー!
昼から練習に行って、3時になったら会社に戻って来て!?
他のメンバーと合流して練習行けーー! 言うんかー? 無茶苦茶やー!
ア帆かーー?
この会社と言うかー? 人事部言うかーー?
ほんま自転車競技知っているんかー?
と言う、いきなりの不信感!!
この辺りチームとしてトレーニングできない=意味がない! と考えていた自分には、
平坦スピード系トレーニング = トラック(バンク練習)不可欠と思っていた為、
チーム最低人数4人 団抜き的なトレーにグできないこと
=>どうしても納得いかなかった。
シマノチーム監督 辻さんは、「市川、オレが何とかする!」と言ってくれていたのだけれど、、、
さあーーてと、、
これから先の文章 >>ありのままを書いていっていいのだろうか?
と言う、個人的な葛藤もあるが、、、
85年 自分の社会人になる初めての就活で巡り会った人々達
=>残念ながら他界されてしまったり、会社そのものを定年されておられます。
米国の公文書では、ないけれど、、
かれこれ25年以上前の事なので、勝手に「 時効 」と言うことで書いていってしまいます。
書いている本人だって、この世に生まれて半世紀以上たっています!! >>書けるうちに、、、
最終的に何が自分をスギノに向かわせたと言うと
会社規模を見たらスギノテクノ
=>シマノと同じ土俵にはあがれなかったかもしれない。
>> どんなに小さくても「トップ=社長 」 自ら計画を言ってくれていたーー!
シマノ レーシングチーム監督 と 人事部(総務部)の部長? との間ですでに微妙な、、
>>トレーニング時間の認識のズレかあると言う「不信感」
これを自分の中で払拭できなかった為である。
なおかつ会社に来れば「 わかる 」的なスタンス
言葉きつく言えば=どことなく上から目線の雰囲気
>下町育ちの自分にはなじめなかった。
それは言うなれば、自分が一番嫌いな「あと出しじゃんけん!!」にシンクロしていたからだ、、
スギノ レーシングチーム 1985
個人的には、「 上から目線 」そのものが嫌いと言う訳ではない。
ある時は必要だしーー!
またある時は、相手に使われてもいたしかたないシチェーションの時も人生の中ではあるだろう。
この時のシマノは、会社の業績では破竹のいきよいで業界No.1だったかもしれないが、
こと「 レーシングチーム 」としての成績や選手のレベルでは、
No.1ではなかったーー! と自分がここで言い切っても、
当時の競技関係者のみならず業界人からも異論はなかろう。
それプラスーー!!
大学出て2年目の24歳の若造の心の中
「 実業団に就職はするけれどー!
間違っても働きに行くんじゃないーー!」 (笑い)
自分は、「自転車レースの為に会社に行くんだーー!」と思っていた!! (最高ですーー!)
いよいよ話しがこじれ始めた12月後半
レーシングチーム関係者以外の言葉
=>「色々希望言うてはるが、体小さいけれど、ほんま走れるんかーー?」
この会社へ入社決別への最終トリンガーを引く形になった。
当時の「イキガっていた」自分のこころの中を書いておきます。
「 Kora bokeーー!! 誰に物言っておんやーー!!」(こわーー!)
そのことばを聞いて
「あー、外見でものごとを判断するだーー!」
と感じたと時、自分の心はこの会社から完全に離れた
「いちぬけたー!」
この言葉は、監督の辻さんにこそ言わなかったが、
よほど悔しかったらしくトレーニング日誌に赤えんぴつで書いてある。
今なら笑らえるが、(マーカーでなくて、赤えんぴつがーー!? あー!?)
思い返すと、この言葉=翌年85年の原動力
>>日大自転車部時代にさんざん言われた「なにくそ精神」に
火をつけた感じとなっていたのかもしれない。
そう考えるとシマノに感謝しなくては、いけないのかもしれない。
何もシマノの人がすべてそうだと言うことではない。
だた当時自分の身の上に起こった事実だけを列記しただけ。
上にも書いたがすでに25年以上も経った今、ありのままを書いても水戸黄門様の
「かくさん、すけさんもういいでしょう!」と言う感じでしょう。
それでも、最終的に電話で「スギノに行きます」と、
シマノレーシングチーム監督の辻さんに伝えた際には、「ガッチャン」と電話を切られた。
でも自分的には「自分が悪い」んだから、しょうがない
>> すみません。と言う気持ちだった。
シマノ レーシングメンバーや元メンバー
>>そう言う泥ぽい?なり行きには、ノータッチだったので、
現役シマノレーシングチーム 国末さん
すでに現役を退いてメカニックサービス的な活動を準備していた大久保さん達からは、
翌シーズンのレース会場で会った際
「 いっちゃん、来ると思っていたのになぁーー! 残念やなぁーーー! 」
と言われた。 ありがとうございます。
オランダ遠征 4,000m 団体追い抜き
仮にあのままシマノに行っていたとしても、
東京下町の破天荒な?性格のロード選手が、おとなしく優良企業で競技生活を
送っていたー! とは、到底考えられない。(笑い)
名門/品行旺盛な優良企業より自分には、
「 野武士 」的なベンチャー企業があっている! と今でも思う。
そう言う意味では、スギノテクノでさえ自分には優良すぎた!?
実の所 入社してレースシーズンが、始まったばかりの5月中旬
国際ロードが、終る頃には、すでにスギノチーム監督の八代さんに
「 今シーズン限りで会社をやめますー!?」と伝えてあった。
この事は、当時のメンバーの三浦を初め安浦、山田他のシーシング部員
誰も知らなかったーー! と思うし今でも知らないと思う。
要は、今も昔もあの寅さんの柴又の隣町 金町と言う下町で育った市川と言う選手は、
「 飼いならされることを極端に嫌う 」性格
「 自分で行って自分で戻ってくるのに何が悪い 」
と言うかなりのOutロー的だと言うことが、自分でも読み取れる。
よって、それを良し!とする目上のひとには、とことん好かれ!
>その好かれていることを本人も実感して(得意の悪のりーー!?)
少々無理なことでもチャレンジーー!!
結果=良ければOKーー!! なのだが、、、
悪くても「 悪びれない 」と言う既存の路線を波を立てずに行かれる先輩方には、
時として「目の上のたんこぶ」となる素粒子!
やっターマンならぬ!「やっカーマン!?」(笑い)
ゆえに「日本的な社会」
>>受け入れずらい傾向あり/大有りーー!!
=>その分、外国人との仕事+交渉ごとには、めっぽう本領を発揮する傾向があり
Yes/Noの世界では、結構重宝がられる。
そんな煙たがる諸先輩がたを唯一救っているとしたらーー!
妙な肩書きやポジションにこだわらない!!
一度、決めたらほぼ90%以上の確立で振り返らない!/未練がましい所は一切ない所!
なーんて!
かっこつけて書いてみたら、
なんか段々、地元の「 寅さん映画 」のフーテンの寅次郎に似て来たぞー!(笑い)
もしかしたら知らない心のどこかで、その生き方を追っているのかもしれないですねぇ。
1985年1月9日水曜日
Sugino 1985 No.1
Index
Sugino Racigng Team 1985 No.1 (スギノ入社)
Sugino Racigng Team 1985 No.2 (阪奈道路/暗峠)
Sugino Racigng Team 1985 No.3 (チャレンジロード)
Sugino Racigng Team 1985 No.4 (近畿ロードロード)
Sugino Racigng Team 1985 No.5 (西実業団ロードロード)
Sugino Racigng Team 1985 No.6 (オランダ遠征)
Sugino Racigng Team 1985 No.7 (都道府県対抗)
Sugino Racigng Team 1985 No.8 (全日本実業団)
Sugino Racigng Team 1985 No.9 (スギノ退社)
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