My Profile
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2011.11.26 (上記日付1984.11.26=データー整理上の過去の日付)
<MITIHO時代のレース画像=ツールド、スイス/アルプス峠 etc、、>
ツール、ド、スイスにも何回か観戦にも行ったし、10日間ステージの中間日あたりに行われる
山岳T.Tのklausenpass 1948m(クラウセン峠)にも走りに行っていた。
スイスのドイツ語圏側からイタリヤ語圏側に行く際に必ず「アルプル」を超えることになる。
地図的にスイスの真中を車を使って高速道路で行く場合
=普通は、Gotthard(ゴッタルド)のトンネルを通ることになる。
もちろんトンネルを使わずに上を走る峠でアルプスを超えることもできる。
St.Gotthard pass 2108m(ゴッタルド) 峠
南側(イタリヤ語圏側)から峠を上ると、途中でハイウェー的な道と昔ながらの「きれいな」石畳の
旧道に分かれる。
ツール、ド、スイスのレース時には、上る場合は、旧道/下る場合は、ハイウェーを使うことが多い。
このゴッタルド峠の近くには、下記3つの大きな峠がある
Susten pass 2259m(スステン峠) ドイツ語圏側(アルプスの手間側)
Furka pass 2431m (フルカ峠) 南側(イタリヤ語圏側)からゴッタルド峠を下った所
Nufenen pass 2478m (ヌフェネン峠) ゴッタルド峠を上る手前を左側へ
中でもヌフェネン峠は、雪深くてツール、ド、スイスが通る時に雪かき
=>ラッセルと言うイメージ自分の中では多い気がする。
ゴッタルド側から上るヌフェネン峠 アプローチも長くて自分も好きな峠のひとつ
文章だけでは、場所のイメージも湧かないないが、
日本人に有名なアイガーやユングラフヨッホのあるGrindelwald (グリンデルワルド)から
地図上の直線距離で右に40km/50km横方向へ動いたあたりにあります。
えーと、、
Grindelwald の位置は、自分で調べてください。首都ベルンから右下へ60km前後の所
インターラーケンやグリンデルワルドには、安いツアー行って、あとは自由行動で!
グリンデルワルドの奥にある峠=Grosse Schedegg 峠 (962m)を起点に
スステン峠やヌフェネン峠などを攻める/(峠に)攻められる?
>> バイクツアーなんかいつかやって見たい気がします。
いやー、人連れていくなんて、自分の性格して面倒というか、できない!?
と思うので、少人数で行ってきます。(笑い)
そのグロース シャィデック峠=Grosse Scheidegg 頂上からみたアイガー 2009.08
グロース シャィデック峠
両側ともある一定のエリアから先は、現地のバス( Postバス)以外は、
入れません/走れませんので注意が必要です。
ちなみに
「グロース」=大きい シャィデック なのですが、
「クライネ」=小さい シャィデック の方ももちろん存在します。
クライネ シャィデックは、アイガーの北壁に乗り継ぐ中間駅の地名
そのクライネ シャィデック駅
ビール缶?に座ってサンドウィッチ片手に振り返る市川 (根本師匠の撮影)
そんな企画をする頃は、グリンデルワルドから1日で行って帰ってくる「足」なんて、
自分にも当然ないでしょうから途中で1泊しながら、、、
ゴッタルド峠の頂上には、いくつかのホテル/レストランもあるし、峠の頂上にあるレストラン兼ホテル
名物「 鶏の丸焼き/2分の1?ハーフ焼き 」も食べたいーー!!
フルカ峠の途中のコーナーにも1軒だけあったホテルやゴッタルドの麓のAiroloにもスイスのMavic -
Gitaneチーム時代のステージレース際に宿泊したいい感じのレストランとこじんまりしたホテルがある。
本当にいつの日か次に行く時があれば、しっかり写真取りをしてきたい感じ、、
84年 ツール、ド、スイスのヌフェネン峠の頂上付近 (森さんと)
ツール、ド、スイスの通過の為、
除雪された「選手の名前の書かれた」雪の壁
フルカ峠の途中あるホテル兼レストラン
画像にはないが、この手前の左側の氷河の中に氷のオブジェを見せる洞窟?があったが、
近年、行っていないので、地球温暖化の今もあるのか不明
<ツール、ド、ラヴェニール>
当時のマチュア版=ツール、ド、フランスと言われていた9月にあった10日間のステージレース
80年代にも非常に珍しかったプロ/アマオープンレース
84年に参加した際にはスペインとの国境に近いピレネー山脈の山岳コースを主体にしていた。
詳しくは、前に書いた通りです。
実の所、ひとつ、ひとつの山岳以外、ほとんど記憶ないです。
スイスから、どうやって行って/帰ったのかも覚えていない。
このステージレースで唯一、今も鮮明に覚えていることは、、
87年に日本人初のプロロード選手になって、フランスのブルターニュのレンヌのレースに行った際に話し
かけてきたひとりのフランスのレース好きなオヤジさんとの出会い
おじさん:「マサトシー、今、いいかい?」
Masa : 「はーい なにー?」
おじさん:「この写真にサインしてくれないかい?」
Masa : 「どれー? あれー、これってー!!」
その時、おじさんの差し出した写真
>> 84年のラヴィニールで、霧と雨の中で苦しんだ、、
「 この峠は、いったいいつ終るんだーー?」
「 もしかしたら、タイムオーバーなのかーー?」 と自問自答しながら、、
誰もいない! 観客ひとりとしていない!!
=>トウェルマレー峠 登っていた時に突然、雲の中から差し込んだ
太陽とその光線の先に見えたトウェルマレー峠 頂上付近にいた観衆!!
「うぁーー!!?」
「 こんな天気の中、いつ来るともわからない最後尾に近い選手を
この人たちは、持っていたのかーー!」
突然の光と観客 「 アレー、ジャンポーネ 」の声でーー!!
「もう止めようかなぁ?/リタイヤかなぁー?」を
思っていた際の突然の出来事 = 頂上での ほんの20秒前後の出来事 だった思う。
おじさん:「どうだーー? 凄いだろーー!」
Masa : 「だって、これって、、、」
おじさん:(手元のあった分厚いノートを開きながら)
「 おれが、集めている選手リストすごいだろう! 」
おまえさんの様な全然、毛並みの違う選手なんかが出てくると
仲間うちでは、もう大変なんだょー! 」
「 それにさー、オレは、この日本人ずーっと前から知っているんだぜー!
なんてさぁーー!!」
おじさんの胸には、いくらかの料金を払って、
よりチームカーに近づけるエリアに入る目印の花が、誇らしげにピンで止まっていた。
自分が、「あのトウェルマレー峠」の心境と感謝の気持ちを伝えようとすると、
さえぎる様に、そんな感傷的な事は、「今のお前には必要ないーー!」と言わんばばかりに、
おじさん:「Masaー、お前にも1枚やるょ。」
「 もう仕事をリタイヤしたオレには、成績に関係なく自分の与えられた仕事を
全力で走る姿が好きなんだ!!!」
「 お前さんもこうしてプロ選手になったんだから、おれたちを思いっきり楽しまさせてくれョーー!
なんたって、オレは、もう3年も前から、お前さんのことを知っているんだからさぁ!
仲間にも鼻高々だょ。 アレーー! Masaーー!」
ラヴェニールの日本チーム
右周りで 林選手(ナショナル) 鈴木選手(BS) 市川 紙谷選手(宮田)
福井たつお(メカ?) 田村監督 コーチ 鉄沢選手(アラヤ)
森選手(宮田) 国末選手(シマノ)
優勝したシャリー、モテ Gitane 監督だったシルリ、ギマール
その後、プロ転向してからも、ギマール監督とは、いつも「いい感じ」だった。
>> 自分のバイクのハンドルの高さも「 普通よりかなり高いサドル高さ 」にあるー!と、
唯一、気がついていた監督さん
<スイス パイエン(フランス語圏) クリテリウム>
スタートする時からすでにもう闇?で、まさかこの暗さの中でレースか?
街頭でもつけるのかなぁ? なんて思っていたら何もな〜し。
マネジャー西さんの画像ですが、フラッシュたいて!
これですょーー!! どだいレースって無理な様な気がします
2年後にスイス Mavic-Gitaneに入って、この地(パイエン)も良く知ることになるが、
西さんの写していたトップ集団には、バニー(先頭)/スティーブ ホッジ(2番手)
オーストラリアのふたりと一緒にトレーニング/レースをする事になるとは、、、
<Wetzikon Tunoda Team >
83年に続きスイスに来たが、83年の初めてスイス長期滞在した際に住んでいたのが、チューリヒと
ヴィンタートウールに中間あたりある Effretikonと言う町
そのエフレティンコンから20km程度南に行った所にあったのが、当時スイス国内ならずとも
シクロクロスの王者として名を馳せたアルベルト、ツヴァィエルの住んでいた町「ヴェチィコン」
その地元名と日本のツノダ自転車が、サプライヤーとなってチーム活動していたチーム
Wetzikon Tunoda=「ヴェチィコン ツノダ」
右も左もわからなった自分にSattelegg 峠などのトレーニングコースや83年最初の年にエリート
アマチュアレースに連れて行ってくれた心優しい人達
ヨーロッパに来て本当に「人との出会い」に恵まれました。
小さい頃から何か勧められて聞かれれば、
「右か左か? 食べるかのか、食べないのか? どちらなんだ?」
矢次ぎばに飛んでくる問いにちょっとでも迷えば、「喝!」となる東京の下町と同じ感覚でいられる地域
=周り見て後から、そーっと的な「あと出しジャンケン」のない人びとだったと思います。
面倒くないです。
自己責任をまっとうする社会で自分のYES/NOをハッキリさせる性格にますます「磨き」をかけてしまっ
た時代だったかもしれません。
自分が生まれた国なのに94年に帰国して17年たっても、
地元下町以外の地域では、どこか何かもうひとつ なじめないない気がします。
迷惑にならないうちに?
いつかまた戻った方がいいでしょうねぇ。きっと、、
そんな、なんだーより、< ヴェチィコン ツノダ>のマイヨーは、白地に丸い赤の日の丸?ある意味で
日本のナショナルチームマイヨーより「日本」ぽかったかもしれません。
そして84年ヨーロッパですべてのレースを終えて、83年よりいい成績を納めたので、帰国前にスイスの
エリートアマチュアチームと契約することを望んだが、それは実現しなかった。
帰国後、一番最初に「レース活動をまだ続けるのかー」?
と電話をかけて来てくれたのは、シマノレーシングチーム監督の辻さんだった。
自分もシマノチームに入ることを望んだいたので、帰国後、早々に大阪に行き自分にとっては、
懐かしい記憶の中にあったシマノスポンサーのテレビ番組「自転車野郎」?に出ていた中村さんや
日大自転車部の先輩の長谷部さんの面接を受けた。
何日してから内定をもらって、いよいよ五輪荘(当時シマノチームが、使用していたチームの合宿所)に
引っ越し、、、となる予定だったが、、、
あることがきっかけで、突然、違う道に行くことになる、、、
このあたりは、85年のレース活動のページに書いて行きます。
自分が、一時的にシマノチームにいた?ことを知る人は、本当に少ないと思います。
84年チーム MITIHO 市川/三浦恭資/森幸春/西 (敬称略)
1984年11月26日月曜日
Team MITIHO 1984 No.8
Index
Team MITIHO 1984 No.1 (2度目のスイス)
Team MITIHO 1984 No.4 ( ツール、ド、ラヴィニール)
Team MITIHO 1984 No.5 (帰国/全日本実業団)
Team MITIHO 1984 No.6 (スイスで一番思いでのあるSATTELEGG峠 他)
Team MITIHO 1984 No.7 (当時の有名スイス選手達)
Team MITIHO 1984 No.8 (スイス=アルプスの峠)
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