My Profile
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2011.11.25 (上記日付1984.9.27=データー整理上の過去の日付)
<MITIHO時代のレース画像=選手/ etc、、>
1984.6.21
スイス ティチーノ(イタルヤ語圏)のロードレースからマルバーグリヤ
当時のスイスのエリートアマチュアレースにレイアウトとしての必ず一カ所1kmから2km前後の
上りを周回させる定番的なコース設定(ギヤレシオ53*40/13-22)
優勝=ベアット、シューマッハ、2位ヤン、コバ *(チェコ)
*コバは、現在スイス内にあるリヒティンシュタィンでバイク店を経営
「 Masatoshi」の知り合いと言えば、安くしてくれるかも!?
画像では、わかりにくが、町中=路面石畳なのです。
個人的には結構「かけていた」のですが、最終回の上りで振り切られれ、20秒差の8位
1984.7.6
スイス ソイザッハ (ドイツ語圏/チューリヒ近郊) クリテリウム
平坦路の短い周回=せいぜい800m前後で行われるクリテリム=結構得意としていた。
スイスのクリテリウムは、ポイント制
それも2つの分かれているレース用/主催者の賞金用が、同じレース中あるので、
少しわかりづあらいが、「ようは、前を走ればいいでんです!」 (笑い)
ここは、自分のブログなので「自分を好きに高めていい」から、思いのまま書いて行くと、
自分のことを上りの選手と思っている方は、少し違っているかもしれません。
「プロ」と言うカタゴリーの中では、「上り」の選手=ヒルクライマーでしたが、
当時のアマアチュアレベルの日本国内等では、「平坦」も十分速かったと思ってます。
まぁー、その辺りは、翌年85年の最初で最後の実業団時代を過ごした大阪のスギノテクノ時代の
レース記事を見てください。
当時のスイスの注目選手
市川の前方のブルーの「OLMO」チーム=ベノ、ウィス(当時のスイスのベストライダー)
この年の秋のフランス、ラヴィニールで2区間を連続で「独走」で優勝!
86年にイノー率いるラヴィ、クレールでプロ転向遠征の多いプロ生活に馴染めずに同年引退 あれー
市川の左側のブルーのゼッケン「33」番やはり同じ「OLMO」チーム
「ギド、ウィンターベルグ」
ウィスと同様に86年、イノー率いるラヴィ、クレールでプロ転向
画像ではわかりにくが、「甘い」マスクで、スイスでは、とにかく女性ファンに一番持てた男!
自分的には結構仲良かったんだけど、、今何しているんだろうー? ギドは、、、
当時のスイスのすべてのエリートアチュアの選手が、誰もが目標にしていた
「静かなる男」=リチャード、トリンクラー(市川の後ろビヤンキのブルーのマイヨー)
すべてのレースが、トリンクラーを中心に回っていたと言っても過言でない。
西と東ドイツがあった時代の西ドイツのニューブリクリンクの78年アマチュア世界選手権ロード
スイスチームは、1位、3位、4位と上位を独占!!
ゴール勝負でオートバイに進路を阻まれて4位となってしまったトリンクラーは、プロ転向する機会を逃し
て長年渡り、スイスのエリートアマチュアレースを牽引した。
最終的にスイスのヘルベチアチームでプロに転向。(たぶん30歳台後半で)自分の中では、
やっぱりひとりの Hero=「リチャード、トリンクラー」 忘れないと思います。
この後の6年後に自分が行くことになるスイスFrank-Toyoの第二監督
ダニエル、ギジィンガー
まだまだ「脂の乗っていた!」 イタリヤの Atalaチーム時代
「このゼブラ」のチームマイヨーが、ジロの平坦ステージのゴールスプリントを彩りました。
下記の当時のスーパー、スプリンター > ウルス、フロイラーとともに
毎年9月の南フランスで行われていた GPナシオン >個人 T.T(45km x 2周=90km)
当時のスーパースター>ベルナール、イノーを2年連続で破って2連勝した個人T.Tのスペシャリスト
スイスのFrank-Toyoチーム解散後91年にに彼の現役最後のプロチームBlikerで一緒だった
「ウルス、フロイラー」
アタラ時代のジロのゴール勝負と言えば彼です。 ジロ区間5勝をマーク!
フロイラーと同年代でツール山岳スペシャリスト言えばベアット、ブロイ(ビート、ブルー英語読)
イノー等のトップ集団に山岳で2、3分差!!をつけるのが、当たり前だったブロイと
スプリンターのフロイラーが、ふたりの最後のビッグステージレースとなった92年のツール、ド、
スイスの最終区間前の前夜、しみじみとワイン飲むブロイとフロイラーの姿は、印象的だった。
スイスに住むフランス選手として有名だった=>ジャンクロード、ルクレー
ドイツ人でも理解できないスイスドイツ語を自在に操つるまれなフランス人
自分が、アマチュア当時の83年からレース会場で会うと、良くしてもらってました。
彼のガールフレンド=めちゃめちゃべっぴんで、、、 (そっちですかー?/笑い)
彼の為に作った?サンドウィッチを先に頂いてました。アマチュアの方が、レース時間短いので、、
その後、セミスキル(注意!シマノじゃないョー!)=クラシックの王者シーン、ケーリのいた
フランス登録チームへて、ヘルベチアなどに移籍
プロフランス国内チャンピオン=2回
ベルギーのクラシックレース<リェージュ、バストン、リェージュ>=優勝
現在、レースコメンテイターとして活動中? 今でもクリスマス等のカードのやりとりある仲
当時のスイスとオランダの(普通の)クリテリウムの違い
スタート人数 スイス 最大40人前後
オランダ 最大100人前後
周回の長さ スイス 最大800m前後
オランダ 2,000m前後
受 付 スイス 1ヶ月前
オランダ 当 日
レース形態 スイス ポイント制
オランダ ロードレース形態 *
ラスト5周回?前後になると第一グループ以外は、すべておろされる。
<スイス名物のオムニクリテ!!>
デルニと呼ばれる「ペダルの付いた」=スピードの微調整が出来るバイクとペアを組んで行われる
高速クリテリウム。
一度だけ参加したことあり!!
自分が、小さいだけ?あって「スリップストリーム」的に有利なのか? 結構行けてました。
でも、さすがにコーナーで重なると最初は恐かったです。
<バイクキャリア=スイスでは、オーダーメイドは、あたりまえ!>
スイス国内では、自分の車にあったキャリアをオーダーすることは、常識!!
バイクレース活動する人達の車は、ハッチやトランクルームの上などに、4台!前後を積める様にした
オーダーキャリア >全盛期!
ごたぶんに漏れず、 MITIHOチームもオーダーして作りました!! (笑い)
キャリア自体をストラップ締めるタイプでしたが、不都合が出たことはありません。
1984年11月25日日曜日
Team MITIHO 1984 No.7
Index
Team MITIHO 1984 No.1 (2度目のスイス)
Team MITIHO 1984 No.4 ( ツール、ド、ラヴィニール)
Team MITIHO 1984 No.5 (帰国/全日本実業団)
Team MITIHO 1984 No.6 (スイスで一番思いでのあるSATTELEGG峠他)
Team MITIHO 1984 No.7 (当時の有名スイス選手達)
Team MITIHO 1984 No.8 (スイス=アルプスの峠)
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